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雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。
十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。
透花は十六歳だった。
「透花ちゃん、しっかりね」
叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。
式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。
「お母さん」
小さく呟いた声は、雨音に消える。
母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。
最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。
あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。
透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。
「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」
葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。
家に戻ると、透花は母の部屋に入った。
病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。
箱の底に、古い革表紙のノートがあった。
透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。
最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。
『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』
透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。
ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。
そして、透花が五歳の時の記述。
『透花は優しい子だ。公園で転んだ子を見て、自分のハンカチを差し出していた。誰に教えられたわけでもないのに。この子の優しさは、どこから来るのだろう』
透花の目が熱くなった。
『でも、少し心配だ。透花は自分のことより、他の人のことばかり気にする。自分が悲しい時でも、私に心配をかけまいと笑顔を作る。まだ五歳なのに』
透花は日記を閉じた。
母は知っていたのだ。透花が自分の感情を押し殺していることを。他者の痛みを引き受けることで、自分の痛みから逃げていることを。
でも、母はそれを責めなかった。ただ、心配していた。
透花は日記を抱きしめた。そして初めて、声を上げて泣いた。
一週間が過ぎた。
透花は学校に戻った。クラスメイトたちは気を遣って、透花に話しかけることを躊躇った。透花はそれに感謝しつつも、その距離が自分を一層孤独にすることを感じていた。
放課後、透花は図書室に向かった。
本に囲まれた静かな空間が、透花の唯一の安らぎの場所だった。司書の先生は優しく微笑み、何も聞かずに透花を迎え入れてくれた。
透花は奥の席に座り、本を開いた。文字が目に入ってくるが、意味は頭に入らない。ただページをめくる動作だけが、透花に何かをしているという感覚を与えてくれた。
夕方近く、透花は図書室を出た。
校門を出ると、小雨が降り始めていた。透花は傘を開き、いつもと違う道を選んだ。家に帰りたくなかった。母のいない家に。
住宅街を抜け、商店街を通り過ぎる。やがて透花は、古い建物の前に立っていた。
市立図書館。
透花は何度か前を通ったことがあったが、中に入ったことはなかった。古びた建物は、昭和の香りを漂わせている。
なぜか、透花は中に入りたくなった。
重い扉を押し開けると、古い本の匂いが鼻をついた。木製の床が、足音に反応して軋む。
館内は薄暗く、訪れる人もまばらだった。受付の女性は眠そうに雑誌を読んでいる。
透花は書架の間を歩いた。
哲学、歴史、文学。背表紙が並ぶ。透花は文学の棚の前で立ち止まり、適当に一冊を取り出した。
「その本は、悲しい人には向かないわ」
声に振り向くと、老婦人が立っていた。
白髪を丁寧に結い上げ、上品な装いをしている。だが、その顔には深い皺が刻まれ、目は不思議な光を宿していた。
「え?」
「その本は、悲しみに沈む人を一層深い淵に引きずり込むの。あなたには、別の本が必要だわ」
老婦人は透花から本を受け取り、棚に戻した。そして別の本を取り出し、透花に手渡した。
「これを」
表紙には『失われた庭の物語』と書かれていた。
「これは……?」
「読めば分かるわ。でも、今日はもう遅い。借りていきなさい」
老婦人は微笑んだ。その微笑みには、どこか透花を見透かすような、不思議な深みがあった。
「あの、あなたは……」
「ただの本好きの老婆よ。でも、あなたは特別ね。透花ちゃん」
透花は息を呑んだ。
「どうして私の名前を……」
「さあ、早く帰りなさい。雨が強くなるわ」
老婦人はそう言うと、書架の奥に消えていった。透花は後を追おうとしたが、その姿はもう見えなかった。
透花は本を胸に抱き、図書館を後にした。
その夜、透花は借りてきた本を開いた。
それは一冊の童話のようだった。挿絵もなく、ただ文字だけが続く。
『昔々、ある国に美しい庭がありました。その庭では、失われたものが再び見つかると言われていました』
透花は読み進めた。
物語の主人公は、大切な人を失った少女だった。少女は庭を探して旅に出る。道中、様々な人に出会い、様々な試練を乗り越える。
だが、物語は途中で終わっていた。最後のページには、こう書かれていた。
『少女は庭を見つけたでしょうか。それは、あなたが決めることです』
透花は本を閉じた。
失われたものが見つかる庭。そんなものが、本当にあるのだろうか。
いや、あるはずがない。
でも、透花の心の奥で、小さな希望が芽生えていた。もしかしたら。もしかしたら、母に会えるのではないか。もう一度、母の声を聞けるのではないか。
透花は母の日記を取り出し、続きを読んだ。
『透花が十歳になった。最近、よく図書館に行くようになった。本が好きなのは、私に似たのかもしれない。でも、透花は本の中に何を探しているのだろう』
透花は息を呑んだ。
そうだ。透花はずっと、何かを探していた。本の中に、答えを。自分の存在する理由を。誰かの役に立つ方法を。
『今日、透花が泣いていた友達を慰めていた。優しい子だ。でも、透花自身が泣く姿を、私は見たことがない。この子は、本当は誰に慰めてほしいのだろう』
透花の視界が滲んだ。
母は全て知っていた。透花の弱さも、痛みも、孤独も。でも、母は何も言わなかった。ただ、そばにいてくれた。
そして今、母はいない。
透花は日記を閉じ、窓の外を見た。雨は止んでいた。夜空には、雲の切れ間から星が見えた。
明日、もう一度図書館に行こう。あの老婦人に会おう。そして、庭のことを聞こう。
それが何の役に立つのか、透花には分からなかった。でも、何もしないよりはましだった。
透花は本を枕元に置き、目を閉じた。
夢の中で、母が微笑んでいた。
翌日の放課後、透花は再び市立図書館を訪れた。 秋の陽射しが、古い建物の壁面を照らしている。昨夜の雨で洗われた空気が、どこか透明で、透花の肺に心地よく入り込んできた。 図書館の扉を開けると、昨日と同じ古書の匂いが透花を迎えた。受付には同じ女性がいて、やはり雑誌を読んでいる。 透花は館内を歩き、老婦人の姿を探した。 しかし、どこにもいない。 透花は文学の書架に戻り、昨日立っていた場所に立った。老婦人は、確かにここにいた。そして、透花の名前を知っていた。「探し物かしら?」 声に振り向くと、老婦人が立っていた。 昨日と同じ上品な装い。だが、今日はどこか疲れたような、影のある表情をしていた。「あの、昨日は……」「覚えているわ。透花ちゃん。本は読んだ?」「はい。でも、途中で終わっていて……」「そうね。あの本は未完なの。作者が結末を書かずに亡くなってしまったから」 老婦人は寂しげに微笑んだ。「でも、あの庭の話は……本当なんですか?」「本当とは何かしら?」 老婦人は透花の目を見つめた。「物語は全て嘘よ。でも、全ての嘘の中に、真実がある。あなたは何を信じたいの?」 透花は答えに詰まった。「私は……失った人に、もう一度会いたいんです」 その言葉が口をついて出た瞬間、透花は自分でも驚いた。それは透花が認めたくなかった、本当の願いだった。 老婦人は静かに頷いた。「そう。でもね、透花ちゃん。庭で見つかるのは、失ったものではないの」「え?」「失ったものは、もう戻らない。庭で見つかるのは、失ったものの意味よ」 老婦人はそう言うと、書架の間を歩き出した。透花は後に続いた。 やがて二人は、図書館の最奥にある小さな部屋に辿り着いた。「郷土資料室」と書かれたプレートが、古びた扉に掛かっている。「ここには、この街の古い記録がある。新聞、日記、写真。人々の記憶が、紙の中に閉じ込められているの」 老婦人は扉を開けた。 室内は薄暗く、古い紙の匂いが充満していた。壁際には木製の書棚が並び、黄ばんだファイルや本が詰め込まれている。「七十年前、この街には本当に美しい庭があったの」 老婦人は棚から一冊のアルバムを取り出し、開いた。 そこには、古い白黒写真が貼られていた。 広大な庭園。中央には温室があり、その周りを花々が取り囲ん
雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。 十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。 透花は十六歳だった。「透花ちゃん、しっかりね」 叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。 式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。「お母さん」 小さく呟いた声は、雨音に消える。 母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。 最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。 あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。 透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」 葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。 家に戻ると、透花は母の部屋に入った。 病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。 箱の底に、古い革表紙のノートがあった。 透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。 最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』 透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。 ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。 そして、透花が五歳の時の記述